買ってはいけない!一万年堂出版の盗作問題

一万年堂出版という会社があります。

 

この会社は「高森顕徹」が教祖の「親鸞会」の広報会社で

著者は「高森顕徹」を元とした幹部会員が名を連ねています。

 

「高森顕徹」の盗作が露見しましたが、他の作品が盗作でないという

証明はされていません。

 

装丁や大きめの文字、読みやすいように振り仮名を使っているなど

巧妙な販売戦略を弄しています。

 

最初に盗作問題として取り上げられたのが、

ベストセラー作品として「光に向かって100の花束」です。

 

この著書は「高森顕徹」という人が書いたことになっていますが、

盗作であることが判明しました。

「大沼法龍氏」の「教訓」を丸ごと書き写しています。

(わずかな所で多少文章を変えていますが)

 

参考文献を掲載しましたのでご参照ください。

 

以下は「さよなら親鸞会」に記載されていた物を

転載しました。

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高森顕徹著「光に向かって100の花束」は大沼法龍の著作のパクリです

高森顕徹の「会報」などの著作が、華光会の伊藤康善や大沼法龍の著作のパクリ(盗作)であることは、高森顕徹の著書のルーツで詳しく報告されています。

そして最近、「光に向かって100の花束」もパクリだと言うことが明らかになりました。

「大沼法龍師」の言葉というブログが最近公開されました。

ごく一部を抜き出してみてみます。

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ニューヨークのウールウォース商店が、一名の監督を募集した、世界一の均一商店の監督というのだから希望者は雲来し素晴らしい推薦状を携えた者も多かった。しかるにその商会では大した学歴もなく紹介状もない一青年を採用した。その理由は「あの青年は一葉の紹介状も携えなかったが実は多くの事実上の紹介状を携えていた。彼は部屋を通らんとして先ず足の塵を払い既に通ればその扉を閉じた、注意深い性格が窺われる。席に就こうとした時に跛の老人のいるのを見てこれに席を譲った、親切なことが之で知れる。室に入るや先ず帽子を脱して敏捷にしかも鄭重に自分の問に答えた、丁寧で礼儀正しいことがこれでわかる。自分が故意に床の上に置いた書物を他の者は知らぬ振りしているのに彼はこれを取り上げて机上に置いた。また彼は毫しも先を争わず徐に己の番のくるのを待っていた。その服装は粗末なものであったが、些の塵埃もなく、髪は美しく梳られ、歯は乳の如く白かった。彼がその名を認めた時に見ると爪の先には少しの垢も溜っていなかった、これこそ何者にも勝る紹介状ではあるまいか」社会は有為の青年を望んでいる。国家は前途ある青年に期待している、中等学校専門学校と智的教育は進歩しているかも知れないが徳育の教養は却って退歩してはいないか。国家を益するには社会から、社会を利するには一家から、一家を興すには一身から、一身を立てるには一心から、一心を磨き、精神を鍛錬し、魂を浄化してこそ玲瓏玉の如き人格は築き上げられ、起居進退則に契い、出ては犠牲奉仕の活躍となり社会国家を聖化し得るのである。
(大沼法龍著「教訓」38紹介状のない紹介状)

 

これが、高森顕徹著「光に向かって100の花束」では、こうなります。

世界に名高いニューヨークのウールウォース商会が、監督一名を募集した。
応募した希望者には、立派な推薦状をたずさえた者が多い。
ところが採用されたのは、なんの学歴もない、紹介状も持たなかった一青年である。
採択理由に、こう記されてあった。
「彼は一葉の紹介状も持参しなかったが、実に多くの、明白な紹介状を携えていた。彼は部屋に入るとき、まず足のちりを払い、入室すると静かに扉を閉じた。注意深い性格がうかがえる。席に着こうとしたとき、彼は、身体の不自由な老人のいるのを見て、すぐに席をゆずった。親切でやさしい人格が知られる。部屋に入るや、まず帽子をとって一礼し、はきはきと我々の質問に答えた。丁寧で礼儀正しいことがわかる。彼はまた、少しも先を争うことなく、己の番のくるのを規律正しく待っていた。その服装はお粗末だったが清潔で、髪はきれいにととのえられ、歯は乳のように白かった。署名した彼の爪の先には、少しのあかも見ることはできなかった。これこそは、なにものにも勝る紹介状ではあるまいか」
社会は有為の青年を望んでいる。
高校、大学は林立し、知的教育は急進しているかもしれないが、徳育はかえって退歩しているのではなかろうか。
ウールウォース商会幹部が見ぬいた、なにものにも勝る紹介状を身につけたものこそ、社会国家を浄化することができるのであろう。
(高森顕徹著「光に向かって100の花束」(56) 推薦状などにたよるな!なにものにも勝る紹介状を身につけよ!)

 

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どう見てもパクリです。本当に有難うございました。

大沼法龍氏の本の内容は、次から次へとアップされていますが、高森氏はどうもこれを殆ど丸写しに近い形でパクって、「光に向かって100の花束」を書いたようです。

「光に向かって100の花束」が1万年堂出版によって一般向けに発売されるときに、各説話の出典がわからず編集員が苦労したという話を聞いたことがありますが、出典がわからなかったのではなく、明らかに出来なかっただけなのでしょう。

 

だって、参考にして書いたと言うレベルの話ではありませんから。そのまんまパクリですから。親鸞会で「大沼法龍の本は読むな」と言われていた理由がよく分かりました。

最後に、親鸞会発行の高森会長礼賛本「随行録」より。

○ 余裕

待ちに待った『光に向かって』第二集発刊。
第一回新聞掲載は昭和五十一年八月。以来十三年、百六十話にのぼる。
その間、原稿締切に遅れられたことは一度もなかった。
〝今だからあかそう〟
と仰有って。
先生「いつも三ヵ月分、書き溜めていた。
三ヵ月先の分を今月の締切までに、必ず書いておく。
三回分あるから今回は大丈夫と思っていると、絶対に書けなくなるから。
倒れた時も、だから休載はなかった。
余裕は、タナボタでは来ない」
(親鸞会発行「随行録」H・2・7)

「光に向かって」は、「光に向かって100の花束」の元になった本です。

休載はないでしょう。だって、タネ本からパクって来るだけなんだから。

「今だからあかそう」「余裕はタナボタでは来ない」だそうです。人の著書をパクって書いておいて、よく平気でこんな恥知らずな自慢を書けるものです。

おそらく罪悪感という概念自体が無いのでしょう。

親鸞会はおかしいけど高森顕徹会長だけは信ずる、という方は多いようですが、そろそろ考え直したほうがいいのではないでしょうか。

人の著作をフルパクリして、その事実を隠し、偉そうに「余裕はタナボタでは来ない」とか言っている人物が、一体どの程度の人間なのか、普通に考えればわかることですから。そして、こんな本を親鸞会の信者の力を使って大量に買わせ、ベストセラーに押し上げたのですから。

こんな人を「世界唯一の善知識」とか、思っていた自分が情けないし、なんだか悲しいですね。

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更に他の作品では「伊藤康善氏」の著作をパクッてます。

 

以下は「さよなら親鸞会」に記載されていた物を

転載しました。

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 高森顕徹氏と伊藤康善氏の著書の類似点

伊藤康善著『安心調べ』P113
それからはたのむ一念を毛嫌いするようになった。嘘と思うなら西本願寺系の布教使の説教を聞いて御覧なさい。たのむ一念を角立てて説く坊さんは一人もいない。皆が二種深信の上で説教して、弥陀の親心を有難く受けたのが信心だと言う。その上は喩話で誤魔化すのである。
高森顕徹著『会報第二集』
たのむ一念を毛嫌いするようになったのである。嘘と思うなら西本願寺系の布教師の説教を聞いてごらんなさい。たのむ一念を角立てて説く人は一人もいないから。みな二種深信の上で説教して弥陀の親心を有難く受けたのが信心だという。その上は喩話で御魔化すのである。
伊藤康善著『安心調べ』 P136
聖教は神聖にして、句面の如く拝すべく、一字一句加減すべからず、…


高森顕徹著『会報第三集』
それは三世を貫く仏説なるが故に、神聖にして句面の如く拝すべきで一字一句加減すべからず、浄土より使わされた如来の声を文字に示したものである。

 

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伊藤康善著『安心調べ』 P141
真宗の安心は根本から転覆される。信心正因、称名報恩が真宗の本旨で、念仏はすべて信後報謝の念仏に限るのであるが、この通りだとすると、信の対象は称名であり、初一念に念仏の声があることになる。言わば念仏は信心を親として生まれる子であるがこの説を認めると、子が親を生むことになる。


高森顕徹著『白道燃ゆ』
若し、このような称名正因の教えを許すならば、真宗の信心正因の教義は、根本から転覆してしまうのだ。
信心正因、称名報恩が、真宗の正義であるから、念仏は総て信後、報謝の念仏に限るのである。
いわば念仏は、信心を親として生まれる子供であるが、称名念仏さえしていれば助かる、というのは、子供が親を生むという、馬鹿げたことになる。

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